紀尾井シンフォニエッタ東京メンバー 玉井菜採さん(Vn)からのメッセージ
私が初めてアナ・チュマチェンコ先生に出会ったのは、1995年ミュンヘン国際コンクールを受けたときでした。大学卒業後、すでにオランダに留学していたころでしたが、それまで日本では彼女の名前を聞いたことがありませんでした。審査員をされていた彼女に審査後お話を伺い、温かいアドバイスを頂きました。「どんな演奏をされる方なのだろう…」と探してみたCD、シューベルトのソナタ集を初めて聴いた時の衝撃は、今なお忘れられません。本当に文字どおり、アナの演奏に心を包まれ、ゆさぶられ、じっとしていられず、ミュンヘンへの留学を決意しました。
アナの音楽家としての生き方は、商業主義的な演奏家と対極にあり、そのCDも今やほとんど廃盤です。ドイツでもなかなか実演を聴ける機会はありません。しかし、彼女の演奏ほど、一度聴いたら忘れられない演奏は滅多にないと思います。「どうしても日本でもアナの音楽を聴いて頂きたい」と、2007年の紀尾井シンフォニエッタ東京定期演奏会で来日が実現し、以来、日本の音楽ファンを虜にしています。
ミュンヘン音大で2年間、アナのもとで勉強しました。よく、「どんなレッスンをされるのか」と聞かれますが、「生徒によって全く違ったレッスン」としか言いようがありません。彼女は以前インタビューで『私は、生徒が自分自身をうつす“鏡”になるのです』と語っていましたが、ひとりひとりに必要なことを見極め、自分で自分の根と幹を伸ばし、葉を広げるように導くのです。レッスンの中で繰り返し、彼女が私に語ったことは「自由」という言葉でした。しっかり技術や秩序を培ってきた上で、そこから自由にならないと!と私を導いてくれたアナのヴァイオリンこそ、「自由」に呼吸し、いきいきと躍動し、作品の核心へと鋭く切り込んでいきます。それでいて聴く人に大きく開かれています。腕を広げ、抱きとめてくれるような包容力があります。
自由。それは無秩序ではありません。独りよがりでもありません。長い歴史に培われた伝統や技術が、演奏者の「音楽する喜び」と人生そのものに結び合わされたときに、はじめて開けてくる境地なのかもしれません。
アナは家族を大事にする一家の母でもあり、生徒からも母親のように慕われていました。彼女にとって演奏活動の中心でもあった室内楽で、日本を代表する演奏家と、素材の味を生かしながら、大胆かつ絶妙な火加減で作品を料理して、聴衆の皆様とテーブルをかこみます。素晴らしく美味しく、心に残るモーツァルトとベートーヴェンになること、間違いありません!
玉井菜採(ヴァイオリン/紀尾井シンフォニエッタ東京メンバー、東京藝術大学准教授)
©三好英輔