紀尾井トピックス

ホール

2025年10月07日 (火)

紀尾井町 音楽さんぽ 第2回「紀州徳川家とクラシック音楽」

 現在、日本製鉄紀尾井ホールが建つ尾張藩中屋敷の跡地は、徳川御三家の紀州藩上屋敷(現・ガーデンテラス紀尾井町)と中屋敷(現・赤坂御用地/赤坂離宮)に挟まれたところに位置しており、江戸の当時、ホール前の道をもっとも多く往来していたのは、紀州藩士だったことが想像できます。時代が江戸から明治に移ると、天皇が京都から江戸城西ノ丸御殿に入城します。しかし、明治6年の火災で御殿が消失。この窮地に、紀州藩最後の藩主・徳川茂承(とくがわ・もちつぐ/1844-1906)は、自身の中屋敷の一部を献上し、一時期この中屋敷が「仮皇居」として使われることとなりました。その名残として、外堀通りに面した東門の屋根瓦には、今でも十六花弁の菊紋を観ることができます。

 さて、天皇に屋敷を差し出した茂承は、港区麻布の旧上杉藩上屋敷の跡地に転居します。この場所は、現在の麻布小学校や外務省飯倉公館が建つ広大な敷地で、茂承の養子として家督を継いだ徳川頼倫(とくがわ・よりみち/1872-1925)もこの麻布の地で過ごします。頼倫は学生時代に留学したイギリスで公共図書館の存在に感銘を受け、自身の収集した膨大な書籍や資料を一般に公開する私設図書館「南葵文庫」を自邸内に設立するなど、文化や学術面に貢献。貴族院議員や日本図書館協会の総裁も務めました。そして、その血筋は息子で16代当主・徳川頼貞(とくがわ・よりさだ/1892-1954)にも受け継がれます。

 後年、周囲から「音楽の殿様」と呼ばれた頼貞は、学習院中等科時代から東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)の本居長世に師事、その後、留学したケンブリッジ大学で音楽理論を学びます。帰国後は政治活動の傍ら、音楽史資料や楽譜を収集し、父の建てた南葵文庫の隣に「南葵楽堂」という音楽専用のホールを設立します。

 ホールは350席ほどの客席を備え、舞台は約70名編成のオーケストラが演奏できる本格的なもので、大正7年10月にベートーヴェンの《献堂式》序曲で開館します。またその2年後には舞台正面に、英国アボット・スミス社製の立派なパイオルガンも設置されました。しかし、大正12年の関東大震災でホールは被災し、使用不能となってしまいます。その後、頼貞は無事だったパイプオルガンを昭和3年に東京音楽学校奏楽堂に寄贈。現在、日本最古のパイプオルガンとして、旧・東京音楽学校奏楽堂でこの音色を聴くことができます。生前、サン=サーンスやプッチーニ、プロコフィエフらとも親交のあった音楽の殿様は1954年に死去。告別式は日本製鉄紀尾井ホール近くの聖イグナチオ教会で営まれました。

南葵楽堂外観
パイプオルガンが設置された南葵楽堂内部

『南葵文庫附属御大礼奉祝紀念館大風琴』(発行者名なし、発行年不明。国立国会図書館所蔵)

*本記事は、紀尾井だより148号(2021年7月1日発行)に掲載した記事を再構成したものです。