ホール
2025年08月19日 (火)
紀尾井町 音楽さんぽ 第1回「音楽の都」
日本製鉄紀尾井ホールの建つ場所は、江戸時代、尾張藩徳川家の中屋敷でした。明治時代になると、新政府がこの地を買い上げて1899年にオーストリア=ハンガリー帝国公使館として生まれ変わります。設計は赤坂離宮(現・迎賓館)を建てた片山東熊の恩師でもあるJ.コンドル(1852-1920)によるもので、煉瓦造の立派な巨館でしたが、関東大震災で倒壊、その後麻布に転居し、現在に至ります。
ところで、紀尾井町に公使館が建つ6年前、オーストリア=ハンガリー帝国の代理公使として着任したハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵(1895-1906)は、日本人の青山みつ(クーデンホーフ光子/1874-1941)と国際結婚します。伯爵夫妻は、紀尾井町から15分ほど歩いたところにある尾張藩上屋敷(現在の防衛省)の裏に建っていた、旧尾張藩医子息の柴田承桂博士の家を借り、ここで2人の男児を育てます。任期を終え1896年に伯爵は一家とともに本国に帰国するのですが、中でも次男のリヒャルト(1894-1972)の活躍は目覚ましく、彼は長じて、現在のEUの起源となる“ヨーロッパ統合”の理念を提唱し、その活動に生涯を捧げます。さらにリヒャルトは統合の象徴たるヨーロッパ連合の“国歌”に、ベートーヴェンの交響曲第9番の第4楽章を提案、1985年にやっと、当時のEC(ヨーロッパ共同体)で採択され、現在の欧州連合や欧州議会においても「欧州の歌」として正式に歌われています。
一方、明治新政府は、オーストリア=ハンガリー帝国に大日本帝国の大使館を設置し、1887年、旧・美濃大垣藩主で、外交官となっていた戸田氏共伯爵(1854-1936)を全権公使として、首都ウィーンに派遣します。氏共とともに渡欧した妻の戸田極子(1858-1936/実父は岩倉具視)は、「鹿鳴館の華」と呼ばれた社交界きっての美貌の持ち主で、ウィーンの社交界でもその名声は知れ渡ります。彼女は幼少期から山田流箏曲を習い、ウィーンでもその腕前を披露したとのこと。当時のウィーンですでに大作曲家となっていたブラームス(1833-1897)がこの極子の演奏を耳にしていたというエピソードがあります。このエピソードにはさらなる研究が待たれますが、ブラームスの遺品に日本の民謡集(ピアノ編曲版)の楽譜が発見され、彼の作曲スケッチも書き込まれていることから、この大作曲家が日本の音楽に興味を示していたことは間違いありません。



*本記事は、紀尾井だより147号(2021年5月1日発行)に掲載した記事を再構成したものです。