新メンバー対談「人生を変えた一曲」~第5回/相澤政宏
新メンバー二人ずつを紹介してきた当企画。2018年度新メンバーは9人だったので、最終回はお一人、昨年9月に入団したフルート相澤政宏さんに語っていただきました。(構成・文/宮本 明)
クリーガーの〈メヌエット〉
「音楽を始めるきっかけになったのが、小学生のときに初めてリコーダーで吹いたクリーガーの〈メヌエット〉です」
ヨハン・クリーガー(1651~1735)はドイツ・バロックの作曲家で、兄ヨハン・フィリップ(ヘンデルを見出したとされる)も音楽家。数千曲に及ぶ膨大な作品を書いたが、その多くは失われており、おそらく一般に知られているのは、日本の音楽の教科書にも載ったこの〈メヌエット〉だけだろう。
小学3年生のときに音楽の先生が担任となり、リコーダーを渡されたその日に「はまった」という相澤少年。まだ小さな手には、一番低いドの音は指が届かずうまく出せない。茶の間のコタツで一人で泣きながら猛練習した。次の日、登校してみたら、ドが吹けるのは自分だけだった。先生が次々に与えてくれる課題の中で、特に夢中になって練習したのが〈メヌエット〉。
「メロディが好きだったのでしょうね。もちろん今でも暗譜で吹けます(笑)」
1年も経たないうちに6年生までの課題を終えてしまい、リコーダーだけでは飽き足らず、学校の器楽クラブでフルートを吹き始めた。幼稚園の頃に読んでいた雑誌に載っていた、フルートの大きな写真を見て、いいなとあこがれていたのだ。
祖父を訪ねてきたN響の親戚
そこからフルートひと筋の音楽人生が始まるわけだが、「宿命」を感じさせる血縁もあった。ある日、帰宅すると、祖父の従兄弟だという老人が家で酒を飲んでいた。聞けばなんと、元NHK交響楽団のトロンボーン奏者だという。
「僕がフルートをやっていることを話すと驚いて、『そうか。じゃあ今度、吉田雅夫を連れてきてやる』と上機嫌でした」
その親戚というのが佐藤弘(1907~1984)。戦中の1942年に前身の新交響楽団に入団。「日本交響楽団」名の時代を経て、1962年に定年退職するまで、ローゼンストックからシュヒターの時代のN響で、首席も務めたトロンボーン奏者だった。しかしその時代、さまざまな苦労もあったようで、「楽器をやるのはいいが、絶対に仕事にはするなと釘を刺されました」
〈第九〉のパート譜を自作した中学時代 結局その忠告は守れなかったわけだが、実はフルートを始めてまもなくから、すでに「オーケストラ奏者になりたい」と漠然と考え始めていたのだ。だから中学・高校の吹奏楽部時代も、吹奏楽作品だけでなく、オーケストラ作品にものめり込んだ。
「中学のとき、《第九》のスコアから自分でフルートのパート譜を書き出して、レコードに合わせて吹いていました。子供の小遣いではそんなにレコードは買えないので、FM放送をせっせとエアチェックして。当時のカセットを、今でもときどき聴きますよ」
音楽したい気持ちがすごい
学生時代からすでに30年在籍している東京交響楽団の首席奏者。そんな大ベテランにも、常設
の室内オーケストラはフレッシュな体験だ。
「紀尾井ホール室内管弦楽団は、モーツァルトやベートーヴェンなど、自分で吹いていてテンションがあがる曲を演奏する機会が多くてうれしいんですよ。フルートのクローズアップのされ方も、大編成のオーケストラとは違いますしね。この年齢になって、そんな新しい体験ができることに感謝しています。なにより、百戦錬磨のみなさんが、より高いところで自分と向き合っていて、音楽をしたい気持ちがすごい。そこで一緒にできるのはとても幸せです」
なかなかまとまった休みを取るのが難しいのは悩ましいが、時間さえあれば、ドライブに出かけて自然の中に身を置きたいという。
「でも、地方だけでなく、東京にも美しい景色はたくさんありますから」
と語ると、「散歩していきます」と、相澤さんは静かにお堀端のほうへ向かっていった。
相澤政宏 ●あいざわ・まさひろ フルート |
---|
■あだ名:相ちゃん ■趣味:草木や川、湖沼などの自然の中に身を置くこと ■演奏家になっていなかったら何になっていたか:高校の教師になって吹奏楽部の顧問(普門館に連れていきたかった)又はローカル線の電車の運転手。 ■プチ自慢:歩数当て(目的地を決めて歩数を予想すること) |