清元紫葉さん(清元節三味線)
「師匠(四世清元梅吉)の凄さに圧倒され、清元節一筋に」
このコーナーでは、旬の演奏家にご登場いただき、その人となり、邦楽との出会い、魅力などをお聞きしていきます。
第6回は清元節三味線の清元紫葉さんです。
―――横浜のお生まれとうかがっています。
実家が横浜の関内で料理屋をしており、住まいも花街の中、いつもお三味線や唄が聞こえ、稽古に通う人たちが大勢いました。私は3歳から踊りを始め、朝から夕方まで先生のお宅に入り浸りの毎日でした。歌舞伎も大好きでよく観に連れて行ってもらっておりました。とにかくお芝居が大好き!小学校の授業中に、興行主気分で『ここは尾上梅幸さんで・・・』などと番組を作って遊ぶ子でしたから。
―――三味線を始めたきっかけは?
私は小さい時から踊りのお師匠さんになりたかったので、まずは地(音楽)から、ということで小学4年生の時にお三味線を始めました。私の祖母、叔母、母とみな舞踊、長唄、清元、小唄をしておりましたので、まずは母について「汐汲」や「胡蝶」を習い始めました。中学に入ると、清元に興味を持ち、清元益寿郎師に教えていただくようになりました。そこで清元三味線の魅力に引き込まれ、舞踊と逆転していったように思います。14歳で舞踊のお名前を、16歳で清元のお名前を頂きました。高校生になると四世清元梅吉師に会の折々にご指導いただき、師の凄さに圧倒されました。演奏の素晴らしさはもとより、新しい可能性を常に追求され、創作活動もされていました。とても感銘を受け、ますます清元お三味線の道を進みたいと思いました。
―――いよいよ清元演奏家への道ですね。
私が高校を卒業した翌年に東京藝術大学音楽学部邦楽科に清元科が新設され梅吉師が講師になるとのこと、一年間待って入学したいと思いました。それまでNHK邦楽育成会に入り長唄の杵屋正邦師につきましたが、その時「貴女は(長唄ではなく)清元の撥でおやりなさい」と正邦師のどんな早間の曲でも清元の重たい撥で弾くという過酷な条件でお稽古していただいたことをよく覚えています。清元の三味線弾きとしての将来を見据えた正邦師の思いやりだと、今になり感じ入っております。そして、一年待って晴れて芸大生、と思っておりましたところ・・・。
―――どうなさったのでしょう?
プロポーズを受けてしまい、19歳で結婚してしまいました。今なら学問と結婚の両立も当たり前ですが、当時はそんなことは夢にも思わず妻の道です(笑)。主人は清元梅寿太夫です。3人の子供に恵まれ、末の子は主人の前名の清元成美太夫として、演奏活動をしております。主人の父が清元登志寿太夫、従兄が梅吉師と一家が清元の家でしたので、私自身もおかげさまで演奏活動を続けることが叶い、梅吉師が「松原奏風」の名で創立した新邦楽の「奏風楽」に24歳の時「長谷川春風」の名で楽員にさせて頂きました。現在は清元、小唄、奏風楽の演奏、作曲、指導の活動をいたしております。
―――最後に清元の魅力をお聞かせください。
清元は拍子がインテンポでないことが他の邦楽より多いです。三味線方は浄瑠璃方のペースに合わせて柔軟に寄り添っていきます。浄瑠璃が高音で長く伸ばしたり、語りかける部分を、三味線が自然に引き立てて、浄瑠璃の内面をも一緒に醸し出していけるような間合い、そして何より繊細な音色で弾くところですね。
清元 紫葉(きよもとしよう)
横浜生まれ。1974年清元流家元清元梅吉より「清元益代」の名を許される。現代邦楽を杵屋正邦に師事。1977年NHK邦楽技能者育成会22期卒業。1999年二世清元紫葉襲名。2013年小唄四世家元田村てる襲名。東京藝術大学音楽学部非常勤講師。清元節保存会会員・清元協会理事・清元流理事・清元美成会主宰・公益社団法人日本小唄連盟理事。