ピエール=ロラン・エマール ピアノ・リサイタル
エマールが語るバッハ《ゴルトベルク変奏曲》(インタビュー・翻訳/西 久美子)
3月21日(木・祝)に行うリサイタルを前に、今回のプログラムについてピエール=ロラン・エマール氏にお話を伺いました。
―――バッハ《ゴルトベルク変奏曲》は、最近、頻繁に演奏会で取り上げていらっしゃいますが、集中的に取り上げるようになったのはいつ頃からですか?
ごく若い頃に、好奇心から《ゴルトベルク変奏曲》を弾いてみたことはありました。しかし、本格的に弾くには時期尚早だろうと判断し、長年のあいだ“眠らせて”いました。この曲と再び向き合うようになったのは2年ほど前です。J.S.バッハの傑作の一つにして、至高の完成度を誇る濃密な作品ですから、公の舞台で披露する前に、ある程度じっくりと時間をかけて準備をする必要がありました。《ゴルトベルク変奏曲》は、限りなく多彩な曲想が次々に現れるファンタジーに溢れた作品ですが、それらを支えているのは、極めて厳格な規則に縛られた形式や書法です。そのような意味で、演奏者にとっては非常に“要求の多い”、ある意味で厄介な作品であり、腰を据えて準備をしたわけです。最近はオックスフォードやミュンヘンで弾いたばかりです。3月の東京に先駆けて、年明けにはパリやリヨンでも演奏する予定です。
―――これまで、バッハの《フーガの技法》《平均律クラヴィーア曲集第1巻》を録音なさっていますが、今回《ゴルトベルク変奏曲》を選んだ理由をお聞かせください。
この曲の魅力については先ほども少しお話しましたが、加えて、演奏時間が約75分——この数字はもちろん奏者によって変わりますが——という、バッハの群を抜いて長大で壮大な作品の一つでもあるからです。形式の点でも曲の規模の点でも極めて野心的なこの曲を“手なずけ”ようと努めることが、自分にとって途方もなく面白い冒険になるだろうと期待しました。
―――《ゴルトベルク変奏曲》はまだCDになっていません。ご予定はありますか?
ありません。予定は全くありません。
―――これほど頻繁に弾いていらっしゃるのに、どうしてですか?
将来、自分の考えがどう変化するかは未知ですが……目下、録音は全く希望していません。すでにこの曲の録音は沢山、世に出ています。おそらく、“あまりにも”沢山……。演奏会でも頻繁に取りあげられている有名曲です。私が《ゴルトベルク変奏曲》と本格的に向き合うまでに、躊躇し、時間がかかった理由も、そこにあります。私がこの曲を弾くことが、“有用”であると思えなかったのです。なぜなら、演奏家に課された主たる責任とは、知名度の低いレパートリー、あるいは、演奏される機会が滅多にないレパートリーに光を当てることだ、というのが、私の持論だからです……。
―――今回の興味深いリサイタル・プログラムでは、《ゴルトベルク変奏曲》の前に、この曲の根幹を成している書法、つまり「カノン」と「変奏曲」にもとづく近現代の作品が置かれています。「カノン」と「変奏曲」であること以外に、ウェーベルン、ベンジャミン、ナッセンの作品とバッハの作品に通底するものがあるとすれば、それは何でしょうか?また、それぞれの作品のどのような点に魅力を感じていらっしゃいますか?
プログラミングの意図を細かにお伝えすることで、ご質問に少しだけお答えできるかもしれません。
バッハの《ゴルトベルク変奏曲》のうち9曲は、変奏曲でありカノンでもあります。そもそも変奏曲とは、主題の骨組みを維持しながら、書法の変化を追求していく形式ですね。バッハはこれに、変奏曲とは正反対の、厳格な——変化に大きな制約を課す——カノンの形式を絡めたわけです。つまり《ゴルトベルク変奏曲》は、2つの対照的な形式の“ハイブリッド”であると言えます。
リサイタル前半の3作品の作曲者は三者三様に、ファンタジーや自由なインスピレーションを、厳格な書法と巧みに組み合わせています。そしてそれはまさに、バッハの《ゴルトベルク変奏曲》の特徴でもあります。
ウェーベルンの「変奏曲」ではカノンが多用されています。この曲も、カノンと変奏曲の“ハイブリッド”です。第3楽章は主題と変奏の形を取ります。そして第2楽章と、とりわけ第3楽章で、見事にカノンが展開されていきます。ですからこの曲は、今回の私のプログラミングのコンセプトを分かりやすく体現している作品です。
ベンジャミンの曲集は6つの前奏曲から成りますが、同時に全曲が、厳格なカノンでもあります。しかし一方で、その書法や響きはファンタジーに満ちています。この曲においても《ゴルトベルク変奏曲》と同様に、この上ないファンタジーと、この上なく厳格な書法が、同居しているのです。これは作曲家にとって大きな挑戦であったはずです。なぜならファンタジーと厳格さは、本来、同居しえないもの、相反し矛盾するものだからです。
ナッセンの「変奏曲」は、言うなれば、20世紀の作曲家が変奏曲のアーキタイプを表現した作品です。今回、ナッセンの「変奏曲」を演奏することは、つい最近、惜しくも他界した彼へのオマージュとなると思います。
―――確かにナッセン自身も、この「変奏曲」の作曲中にストラヴィンスキー、ウェーベルン、コープランドの作品を念頭に置いていたと述べています。
その通りです。実際、作品にもそれが現れています。
―――エマールさんはベンジャミンの《6つのカノン風前奏曲》の世界初演者であられますね。そもそもベンジャミンは、なぜ新作を書くに当たってカノンと前奏曲を結び付けることにしたのでしょうか?ご本人から、発想の原点について聞いていらっしゃいますか?
ベンジャミンの意図も、2つの相反する形式を結び付けることであったのではないでしょうか。前奏曲は、最も自由で最も即興的な性格の強い器楽形式です。これとは対照的に、カノンは最も抽象的な形式の一つであると同時に、対位法の中で最も堅い縛りをもつ形式ですからね。
―――エマールさんは、日本では何よりもメシアン作品の演奏の大家として有名です。さらに、難解とされる現代音楽を、明晰でありながらも血の通った「人間の音楽」として演奏し、多くの人に感銘を与えてきました。現代曲や無調作品など、抽象性の高い音楽を演奏する際に、表現者として意識していることはありますか?
とくに何も意識していませんよ。仮に私の演奏が人間的に響くとしても、それは単に、私自身が生身の人間だからじゃないかな……(笑)だから、残念ながら人間的に演奏する“こつ”を皆さんに伝授することは出来ません(笑)ただし私にとって“音楽をする”ことは、日常生活におけるさまざまな行動と全く同列にあります。そして確かに私は、現代曲を、それ以前の時代に書かれた音楽の延長線上にあるものとして捉えてはいません。私の目には、現代曲は格別に重要に映ります。その背後に、私たちと同じ時代を生き、私たちの時代を照らし、私たちの時代を解明しようとしている作曲家たちがいるからです。
撮影:1枚目、3枚目=Wiener Konzerthaus Julia Wesely。2枚目=Marco Borggreve