川口 成彦(フォルテピアノ奏者)特別寄稿
マクシム・エメリャニチェフ 3種鍵盤 モーツァルト・リサイタル
“マクシム・エメリャニチェフがチェンバロ、フォルテピアノ、モダンピアノの3台でモーツァルトを弾き分けた演奏会が2022年に東京であった。これは本当に伝説的なリサイタルだった!!”
…… こんな風に将来必ず語られるであろう演奏会がこれから開催されます。
1988年ロシア生まれのエメリャニチェフは紀尾井ホールでは鍵盤楽器奏者としての一面を見せてくれますが、彼は指揮者としても世界の第一線で活躍しています。
若くしてスコットランド室内管弦楽団の首席指揮者を務め、これまでロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団やロンドン・フィルなどの世界中の名門オーケストラにも招かれ、さらに今後はベルリン・フィルやミュンヘン・フィルなどでのデビューも予定されています。
指揮者デビューが12歳だったということにも驚かざるを得ません。そして今回の紀尾井ホールでの公演も新日本フィルと関西フィルを指揮する合間を縫っての一夜限りのかなりスペシャルなソロリサイタルです。
彼は鍵盤楽器奏者としてもセンセーショナルな存在で、モスクワ音楽院時代に開眼したという古楽の分野で特に目まぐるしい活躍をしています。2010年にブルージュ国際古楽コンクールのチェンバロ部門で最高位入賞の後、世界中を驚かせ続けているテオドール・クルレンツィス率いるムジカ・エテルナの通奏低音奏者として活躍した時期も経て、イタリアを拠点とする古楽アンサンブルのイル・ポモドーロ(Il Pomo d’Oro)では2016年より音楽監督を務めています。
そしてフォルテピアノでは『モーツァルト:ピアノ・ソナタ集』(Aparté)でフランスのショック賞を受賞していますが、これがまさに衝撃の録音です。指揮者としても有能な音楽家が描くモーツァルトのソナタはセクションごとのキャラクター、それに応じた計算された速度コントロール、バス声部の豊かな表情などなど、あらゆることに奏者の明確な意思が宿っており、どれをとっても「これだ!」と納得させられるものでした。特に驚いたのはゆっくりな楽章におけるテンポ・ルバートです。
「私がいつも拍子を正確に保っているので、みんな驚いたようです。
あの人たちは左手が揺るぎない冷静さを保つアダージョにおけるテンポ・ルバートのことを
何も分かっていないんです。彼らの左手はぐらつきます。」
モーツァルトが1777年10月24日にアウクスブルクで書いた父レオポルト宛の手紙にはこのように記されています。この文は、ゆっくりな楽章(セクション)において左手が厳格な拍を刻んでいる上で右手がベルカントの歌手の如く、左手にピタッと合わせることなく自由に演奏すべきだということを示してます。「低音部の揺るぎないテンポに乗ったテンポ・ルバート」というものは18世紀初頭のピエル・フランチェスコ・トージによるベルカントの理論書にも述べられており、ロマン派の時代ではショパンにも継承されているルバート奏法です。モーツァルトを演奏する上でかなり重要な演奏テクニックであるこのルバートはなかなか難しいもので、自分自身の演奏で上手く出来ていない時にはモーツァルトの仰る「何も分かっていない」という言葉が心に突き刺さります。しかしながらエメリャニチェフの弾くK.545の2楽章の録音ではまさにモーツァルトを体現したような絶品のテンポ・ルバートが繰り広げられており、彼の偉大さを痛感しました。
さてこんなにも偉大な音楽家がなんとフォルテピアノだけでなくチェンバロとモダンピアノまで弾いてくれるというのだから、これはもう本当に贅沢すぎる演奏会です。そして古楽に精通した彼だからこそ、あらゆるクリエイティヴな発想と共に現代の我々を驚かせ、色鮮やかなモーツァルトの世界に誘って下さるのではと思います。このリサイタルは本当に“伝説”になると確信しています。
[公演詳細ページ]
マクシム・エメリャニチェフ
3種鍵盤 モーツァルト・リサイタル2022年11月6日(日) 開演:14時
【執筆者プロフィール】川口成彦(フォルテピアノ)Naruhiko Kawaguchi, fortepiano
2018年第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール第2位、2016年ブルージュ国際古楽コンクール・フォルテピアノ部門最高位。フィレンツェ五月音楽祭、「ショパンと彼のヨーロッパ」(ワルシャワ)などの音楽祭に出演。協奏曲では18世紀オーケストラなどと共演。東京藝術大学/アムステルダム音楽院の古楽科修士課程修了。第46回日本ショパン協会賞、第31回日本製鉄音楽賞 フレッシュアーティスト賞受賞。CDは自主レーベルMUSISによる『ゴヤの生きたスペインより』(レコード芸術&朝日新聞特選盤)など。公式ウェブサイトhttps://naru-fortepiano.jimdofree.com